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『物語イタリアの歴史』シリーズ n.1
皇帝ハドリアヌスの物語
著者  藤澤 道郎


  @ カステル・サンタンジェロ(聖天使城) ローマ
ローマを訪れてカステル・サンタンジェロを見なかった人はまずあるまい。日本語の案内書には「聖天使城」と訳されていることが多いがそんな名前は知らなくても、ナヴォーナ広場を北へ抜けてテーヴェレの河畔に出た時、対岸左手に見える巨大な風呂桶のような円いお城と言われれば、きっと思い出す。直径六十四メートルの大円筒がどっしりとテーヴェレ河岸に腰を据えている姿は、忘れられない印象を旅人の脳裡に刻みつけているはずである。
長い間この城は、ローマ教皇の最後の砦であった。カノッサの屈辱で名高い教皇グレゴリウスは、ドイツ皇帝にローマを制圧されてもこの城に篭もって抵抗すること四年、遂に屈服しなかったし、下って十六世紀、酸鼻を極めたローマ劫掠の嵐を、教皇クレメンスはこの城に逃げ込んでようやくしのいだ。難攻不落の名城だったのである。また長い間この城は、政治犯や異端者を収容する監獄としても使われ、イタリア史上の多くの著名人がここで審問を受け、拷問に耐え、時には処刑もされた。哲学者ブルーノも、魔人カリオストロ伯もその獄房に呻吟したのである。
そう言えば、歌劇トスカの最終場面、ヒロインが絶望して身を投げるのも、この城壁の上からであった。ただしトスカの話は完全なフィクションである。
夏目漱石はその初期の短編の中でこう言っている。「倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である」。倫敦塔を聖天使城に、英国を羅馬に替えれば、この言葉はここにもぴったり当てはまる。ローマの歴史はロンドンの歴史よりはるかに古いが、血の匂い、罪の匂いの漂っている感じは同じである。どちらの建物も川向こうの冥界を、つまり「死」を感じさせる。だがいったいこの城は、いつからそこにあったのか。この無気味な石造の幾何学的立体を、構築したのは誰なのか。ここで我々は遥かに時間を遡らねばならぬ。紀元二世紀、日本の歴史では女王卑弥呼が邪馬台国を統治していた頃、西洋は古代ローマ帝国の最盛期である。五賢帝と称せられる名君が次々に即位して、ヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸にまたがる大帝国を支え、史上稀にみる繁栄と安定をもたらしたのが二世紀、その五賢帝の三人目に当たるハドリアヌス帝が、テーヴェレ川の対岸に自分の陵墓を築かせた。それが現在の聖天使城のそもそもの由来である。つまりそれは城塞でも獄舎でもなく、古代の帝王の霊廟だったのである。
もちろん、最初の形のままで現在に至っているわけではない。霊廟が城塞に変わっていく過程で、さまざまに手が加えれられ、古代の彫像は取りのけられてキリスト教の聖者像や天使像に替わり、地下の霊安室に置かれていたはずのハドリアヌス以下歴代皇帝の柩は消失し、円錐形の土盛りははぎ取られて内部構造が露出し、そこに各種の戦闘用の設備が付加されて現在の形になっているので、もとの形は推定に拠るほかない。しかし、想像の中で、現在四層の巨大な円筒の上二層を撤去し、残る平べったい円筒の上に頂上の彫像を頂点とする円錐を置いてみる。そしてその円錐の表面を潅木の植え込みの緑で覆い、頂上の天使像を皇帝ハドリアヌスの青銅像に替えれば、紀元二世紀当時の偉容が、おのずから浮かび上がって来るではないか。大地にへばりついたような現在の城塞は、高く天空を指す尖った山と化し、仰ぎ見ればその頂上に、偉大な古代の皇帝が太陽神となって、四頭立ての馬車を駆り、夢みるようなローマの青空を背景に、悠々と天かけりゆく……
この霊廟の建築設計に当たって、皇帝が深く関与したことは確実だ。彼自身優れた建築家でもあったからである。ウェヌス神殿の構想にけちをつけられ、怒ってその建築家を殺し、自分で設計図を引いて竣工させた、という話が伝わっている。殺された建築家というのが古代最高の名匠と謳われたアポロドロスだから、この話、そう簡単には信じられないが、ハドリアヌス帝が建築の専門知識を持ち、その能力に絶大な自信を持っていたということの証明にはなる。
それに、彼が能力を発揮した分野は、ただ建築だけではない。哲学に造詣深く、哲学者を集めて自分もその討議に参加し、しばしば相手をやりこめたし、天文学にも深くはまり込んでいた。自分でも絵を描き、美術鑑識眼も確かだったことは、ティヴォリ近郊の離宮に集めた彫刻の蒐集が名品揃いであったことからも判る。 詩を書き、文法書を編み、楽器を奏し、歌も歌った。こんな風に芸術や学問に凝るタイプの君主は、ネロや宋の徽宗皇帝、我が国の後鳥羽院を引き合いに出すまでもなく、政治や行政の能力には欠陥があり、それゆえ君主としては失格の烙印を押されて終わるのが通例であるが、ハドリアヌスはその稀な例外の一人であって、的確な状況判断、決断と実行、人事や財政における絶妙のバランス感覚、世評を恐れず最適の手段を取る信念の強さ、目的を達するために迂路や妥協を辞さない柔軟さ、隅々に目を配りながら大局を見失わない視野の広さ、そのどれを取ってもこの皇帝は、世界史上最高レベルの政治家の一人と言うことができる。治世二十年、ハドリアヌスの大胆かつ細心の指導のもとに、ローマ帝国はほぼ完璧に近い行政機構をその広大な版図に確立し、その基盤の上に平和と繁栄を享受し、黄金世紀を謳歌したのであった。


   ハドリアヌス帝彫像
これだけの業績を果たし、人民の尊崇を一心に浴びていたこの皇帝の晩年は、さぞかし満足感に満ちた幸福なものだったろうと、誰しも思う。だが実はそうではなかったのである。彼は生きることに倦み疲れ、自分の成し遂げた事業に価値を見出せず、ひたすら死を考えていたという。現代の歴史家モンタネッリは、ハドリアヌスの晩年を叙してこう書いている。
「ハドリアヌスは死ぬことばかり考えていた。テーヴェレ河の対岸に場所を定めて陵墓を作ったが、この巨大な陵墓は現在聖天使城と呼ばれている。自分の墓を作り終えた頃、ストア哲学者エウフラテスがやって来て、自殺を希望し許可を求めた。皇帝は自殺を許可し、人生の無益さについて語り合った。エウフラテスが毒薬を飲み干すのを見た皇帝は、わしにも毒杯を持って来いと叫んだが、誰も持っていかない。侍医に命じると進退きわまって自殺してしまう。そこでお付きの者に、わしに剣をよこせ、さもなければ剣でわしを刺してくれと懇願したが、仰天して逃亡してしまった。
『ああ、わしほど不幸な者があろうか』と絶望した皇帝は叫んだ。『死にたいという者に死なせてやる権限を持つこのわしが、自分自身を死なせてやることができないなんて』……偉大な皇帝だっただけではない。古今東西の歴史を通じて最も複雑で無気味で魅力的な人物の一人だった。ハドリアヌスはおそらく古代世界で最も近代的な人間だった。」