Q4: 「恥の文化」とは何か (C) 森 貞彦
恥の文化は、恥に由来する文化と考えられたり、恥に支配された文化と思われたり、もっとひどいことに恥ずかしい文化だとか恥ずべき文化などと考えられることさえありました。これらはいずれも『菊と刀』が正しく理解されていないことから生じた誤解です。そしてそれを正しく理解しなかったのは、専門外の人たちだけではありません。堂々たる専門の学者の中にさえ、この事に関する基本的な点で大きい間違いをしている人が珍しくありません。
ある有名な学者が書いた論文の中に「日本文化を“恥の文化”と規定する以上、賞賛される恥やその他の多様な現象形態にも適用されうる恥の概念を構成する必要がある。いいかえれば、いっそう基底的な層において、恥をとらえねばなるまい」という文があります。この論理に従えば、恥の研究をしてその本質を究めた上でなければ「恥の文化」などという言葉を使うことを避けるべきだということになります。さらに言うなら、たとえば「A氏は風流な人だ」などという表現は、気象学で風の研究をし、流体力学で流れの本質を究めた上でなければ使えないことになります。
ベネディクトは、文化の研究をしたのであって、恥の研究をしたのではありません。彼女の言う「恥の文化」では、「恥」は記号にすぎないのです。鈴木梅太郎が米ぬかから抽出した物質を人々が「オリザニン」と呼ぼうが、「ビタミンB」と呼ぼうが、その分子構造や生体内での生理的作用に関係はありませんし、原子核の電荷を陽とし、電子の電荷を陰としたからといって易学との関係が無いのと同様、「恥の文化」をたとえば「紅文化」と呼び、「罪の文化」を「白文化」と呼ぶことにしても、その本質には関係ありません。要するに、上述の学者は記号と本質との区別を知らなかったのです。ですから彼の論文は、恥の研究としては価値があるかもしれませんが、『菊と刀』に対する批判としてはまったく無意味です。
恥の文化に対する誤解の大多数は、記号にすぎない「恥」をあたかも文化に先立つ本質的な事柄であるかのように取り違えたところから生じたものです。ベネディクトの言う「恥の文化」が恥と関係を持っていることは事実ですが、間違えてはならないのは、先ず恥があってそこから恥の文化が生まれてきたのではないということです。恥の文化の出発点は恥とは別の所にあって、それが発展していくときに、「罪」にはなじまず、「恥」になじみやすいということなのです。
残念なことに、現在市販されている唯一の訳本すなわち長谷川松治の訳本ではここのところが誤解されやすい文になっています。『「菊と刀」再発見』では、そういう翻訳の問題をも含めて、入念な検討が行なわれています。
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Q1: 『菊と刀』は何のために書かれたのか?
Q2: 誰も知らなかったことの研究とはどんなことか、それにはどんな意義があるのか?
Q3: 「文化の型」とは何か? それは人間の無意識とどんな関係にあるのか?
Q5: 「日本文化の型」とは何か?
Q6: 『菊と刀』の結論はどこに書かれているのか?
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(開設:2002年8月5日。 最近の更新:2010年11月7日)