『「菊と刀」注解 増補改訂版』(上・下) について

『「菊と刀」注解 増補改訂版』刊行に伴い2002年に書かれた『「菊と刀」を読みましたか』は役割を終えましたので2010年に全面的に書き変えました。

©森 貞彦 2010

 

 現代は科学技術文明が栄えている時代です。この文明が人類にかつて無い繁栄をもたらしたという実績を否定することはできませんが、この文明の将来に不安を感じている人も稀ではありません。なぜでしょう。それは現代文明の基礎をなす思想――近代ヨーロッパ的合理主義――に重大な欠陥があるからです。その思想は人間以前の、あるいは人間不在の世界に起こる現象を理解するには申し分のないものですが、人間の心が何らかの役割を持っている現象を理解するにはほとんど役に立ちません。このことに気がつかないでその合理主義ばかりが重んじられてきたのが過去数百年の人類の歩みであったのです。その結果食糧生産の増大と安定化、感染症の克服、資源の開発と有効利用といった方面で人間の生活が豊かになりましたが、一方では未曾有の大規模な殺人と破壊が行なわれました。そればかりか地球全体を巻き込んだ環境破壊も引き起こし、無秩序な情報の氾濫のために世界経済の混乱を招きさえしました。この趨勢が改まらなければ22世紀の人類の歴史がどんなに惨めなものになるか、想像するのさえ恐ろしいことです。でも、その危機を科学技術の力で克服しようというのは間違いです。それは矛盾を再生産するだけです。私たちは近代ヨーロッパ的合理主義では解明できない心の問題に注目しなければなりません。

 幸いなことに、20世紀前半にルース・ベネディクトが『文化の型』と『菊と刀』という二つの著作によって人間の心が主たる役割を持つ現象への取り組み方の例を示しました。ところがこのことは半世紀以上にわたって誰にも気付かれませんでした。彼女が示した貴重な情報が永い間店晒しのような状態になっていたのですが、なぜそうなったのかということは別の機会に譲り、ここではその情報の性質に関して見落とされがちな事柄に注意しましょう。『菊と刀』を理解するためには二つの重要な事柄を認識しなければなりません。すなわち

@「文化の型」は、人間の意識に上るものではなく、無意識的情報処理の部族的あるいは国民的特色をなすものである

Aベネディクトは常に人間の集合的無意識に注目し、それを(フロイトではなく)ユングの視点に立って扱った

です。世界中の学者・研究者たちは半世紀以上にわたってこの二点を等閑にしてきました(あるいは気付きませんでした)。

『「菊と刀」注解 増補改訂版』はこれらの点を読者に理解していただくことを最重要課題としています。それを果たすために筆者は英語の原文をすべて掲げ、その各段落ごとに詳細な考察と解説を掲げました。原文を重視したのは、日本語に翻訳するということ自体が意味論的歪曲を免れず結果として上の二点の理解を妨げる場合があるからです。

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この本は上下二巻より成ります。上巻で扱う範囲は、原書の第1章‘Assignment: Japan’から第9章‘The Circle of Human Feelings’までです。そこではベネディクトが記述した研究の目的、研究方法、問題提起、そしてその問題の概観と予備的な分析について筆者独自の見解が述べられます。研究方法については(後でもう一度触れますが)特に注意が必要です。下巻では、第10章‘The Dilemma of Virtue’から第13章‘The Japanese Since VJ-Day’までの各章に掲げられた日本人の心理の最深部に及ぶ分析とそこから抽出される日本文化の型について詳細な説明と考察をするだけでなく、補章、付録Tおよび付録Uを加えてベネディクトの論旨に対する読者の理解を確立することに努めました。補章では、ベネディクトの数多い業績のうちとくに『文化の型』と『菊と刀』が世界中の学者に誤解された理由が追究されます。ページ数は多くはないけれども、人間というものに対する西欧人の認識に不十分なところがあること、そしてまた20世紀のアメリカにおいてさえ先端的な学者はガリレオの轍を踏まないようにーー集団的固定観念から発する激情にとらわれる人々を刺激しないようにーー注意しなければならなかったことを指摘するものであり、看過し難い記述を含んでいます。付録Tでは九鬼周造の『いきの構造』が『文化の型』および『菊と刀』に先行して日本文化の特徴を見る重要な視点を提供したことが示されます。付録Uは芥川龍之介作「羅生門」を恥の文化の観点から分析するものであり、日本人の思考と行動がどれほど強く恥の文化を反映しているかということの一例が示されます。

全体を通じて印象付けられることはいくつもあるでしょうが、とくに重要と思われるものを掲げておきましょう。それは、ベネディクトの研究方法が西欧の学界で伝統的に行なわれているものと異質であるということです。伝統的方法を簡単に言うと、デカルトの有名な命題「私は考える、それゆえ私は存在する」によって言い表される合理主義に沿うものです。その合理主義は数学的理性を駆使する自律的個人の活動を前提としています。西欧ではこれが非常に重く受け止められており、人間の知的活動が全面的にそれに拠らねばならないかのような考え方が一般的になっています。しかしその命題を導いたデカルトはそう考えていたのではなく、差し当たって手を付けやすいところから始めるということで自然科学の分野で有効な命題を導いたのです。『方法序説』では明瞭に日常的道徳あるいは風儀に関する問題を回避することが述べられています。その理由は、それが厳密な意味で、すなわちアリストテレス以来の伝統的論理学に照らして、真とは言えないものを含んでいるからです。デカルトはこのように慎重に自分の方法の適用範囲を限定したのですが、後に続く人たちは自然科学における成功に幻惑されてその限定を無視しました。それはいま言及した「真とは言えないもの」にも価値があると認識してのことではありませんでした。彼らは厳密な知に近付くことに強い憧憬を抱いて、人間の精神がかかわらない領域――たとえば惑星の運動、空気中での木片や油の燃焼、動物の解剖学等々――に限って適用が許されるものを人間の精神が何らかの役割を持つ領域に持ち込んだのです。この過誤は長い間気付かれませんでしたが、ベネディクトは『文化の型』を著した時にすでにそれに気付いていました。そして1944年に合衆国政府から日本の研究を委嘱された時にはその対象が上述の過誤を含んだ伝統的方法では処理できないものであることを見て取りました。すなわち伝統的論理学に照らして真とは言えないものにも価値があることを認めなければその課題をクリアできないこと、したがって戦争の犠牲者を最少にとどめ、日本占領を混乱なく遂行することができないことを見抜いたのです。そしてその価値を認めることは数学的理性でできることではないと直ちに見て取りました。彼女はすでに『文化の型』で「型」を駆使することを経験していたので、それを生かして数学的理性の繋縛を免れることができたのです。

その繋縛を免れたので『菊と刀』は人間の精神の最も深いところにメスを入れて得られた所見を述べるものになりました。その結果彼女は、『文化の型』ですでに未開部族について得られていた知見すなわち人間の集団がそれに属する個人の意思を超越する意思を持つということが、高度の文明を持つ国民(nation)においても正しいことを確かめました。これはデカルトの言う「私は考える、それゆえ私は存在する」の「私」が、個人ではなく、集団でなければならないということを意味し、さらに伝統的論理学に照らして真なるものだけに価値を認める数学的理性が必ずしも絶対的でないことを意味します。この点で『菊と刀』は後にも先にも類を見ない書物です。それは人間というものに関する全く新しい見方を導入するものであり、ガリレオの『天文対話』やダーウインの『種の起源』と並べても少しも見劣りしません。このことを理解することのできる書物として、ぜひ『「菊と刀」注解 増補改訂版』をご覧になるよう奨めす

ご参考までにその本の目次と「はじめに」の全文を読めるようにしておきます。ご利用ください。

 

目次(上巻および下巻)

 「はじめに」

 

 この本はオンデマンド出版されています。書店では入手できませんので、購入ご希望の方は出版社 オンブック に直接申し込んでください。

 価格は、上巻が4,400円+消費税、 下巻は4,300円+消費税 です。送料もご負担願います。

 ご意見、ご感想、ご質問等、何なりと筆者森貞彦までお寄せください。メールアドレスは下記の通りです。

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付記1

 最近書いたエッセイ『映画「赤い靴」と現代文明――罪の文化の恐ろしさ』も御覧ください。

 

付記2

 筆者は2002年に『「菊と刀」再発見』という本を東京図書出版会から出しましたが、その本を紹介したホームページに付随して、筆者が想定した六個の質問に対する応答の文を掲げました。以下のリンクからそれを見られるようにしておきます。八年も前のものですから今から見ると多少幼稚なところや書き足りなかったことがありますが、間違ってはいませんから一読をお奨めします。

 

Q1: 『菊と刀』は何のために書かれたのか?

 

Q2: 誰も知らなかったことの研究とはどんなことか、それにはどんな意義があるのか?

Q3: 「文化の型」とは何か、それは人間の無意識とどんな関係にあるのか?

Q4: 「恥の文化」とは何か?

Q5: 「日本文化の型」とは何か?

Q6: 『菊と刀』の結論はどこに書かれているのか?

 

(全面改訂;2010年8月22日。 最近の修正:2011年2月13日)