2005/11/7
藤ノ木古墳の貴人 出土状態から復元した装身具。
 奈良の斑鳩町で発掘調査された藤ノ木古墳は、未盗掘であるということで、石棺を開ける前から、様々な話題になっていました。
 しかし、中から現れた豪華な副葬品や、埋葬状態を明らかにする遺物の数々が、それまでの憶測や、期待をはるかに上回る「掘り出しもの」だったのです!
 世間の関心も高まりましたが、最終発掘から、16年・・・評価や関心も、どうやら落ち着いてきたようです。
 世間が忘れた頃に、おばさんはやってくる・・・流行とズレた興味をそそられてしまいました。

 天下の世界遺産の法隆寺! 世界最古の木造建築は、毎日膨大な観光客がやってきます。
 その法隆寺のすぐ西横。歩いてもさほど遠くない場所に、藤ノ木古墳はひっそりとあります。
 
 たいして大きくない墳丘。今は主体部分に覆屋があり、中は見えませんが、石室の奥に、押し付けられるように、ぴったりの状態で、少しフタのゆがんだ石棺がぽつんと一つ。
 石棺の外には、極上の細工の黄金の馬具や、鎧、刀剣、矢。土器などがあり、石棺の中にはぎゅうぎゅうづめに、2人を入れてあって、便宜上北側の被葬者南側の被葬者と言われています。
 
 北さんは、年齢17〜25歳くらいの男。ま、青年と言っていいでしょう。
 南さんは、年齢20〜40歳・・であろう・・そしてどちらかというと男性的な特徴がある骨をしている・・らしい。
 あいまいなのは、残りが悪いからですが、まあ、成人ですね。
 
 しかし、明らかにゴージャスな北側さんは、何者なのか? 
 そして、南側さんはなのか・・なのか? 
 この南さんが、男のような骨の特徴をしているからといって、男と断定できないのは、普通、合装墓というと男女が多く、夫婦塚(いわゆる比翼塚ですね)らしいんですね。
 それだけではなく! 南さんは足玉つけているのです。
 足玉は、古代では女性の服装だと言われていて、ものすごく大きな玉を連らねた足玉をしているのが、学者たちの悩みのたね。 
 とうとう、女装した男だとか言い出す人も出てきました。
 でも、男みたいな体格をした筋肉姉さんかもしれないじゃない? 
 どっちにしても、残りが悪いのでなんとも断定できないようです。
 
 ですが、持ち物や装身具から、この墓の主は、間違いなくさんです。
 とても遺物の残り方がいいので、どのような装身具を身につけていたかが、かなり復元できますが、話題になった黄金の冠ベルトは横っちょに納められていて、身に着けているわけではありません。
 
 身につけていたのは1万2000個ものガラス玉をつづり合わせた豪華な装身具なのです。
 赤と黄、紺のガラス玉を使って、簾のようにして、頭から背中を覆い、腰まで届くほどのガラスのベール
 
 耳飾首飾りは勿論ですが、頭には金銀の装飾もあったらしい。
 そして朱色と紺色で亀甲を織り出し、全体に金の飾り金具をスパンコールのように縫い付けた錦の布で覆われていたのです。
 
 黄金の馬具。鎧。弓矢。棺の中から出た6振りもの刀剣。
 であるのに、豪華な副葬品に比して、粗末な墳丘、つくりの悪い石棺。
 
 これは急いで葬った、あるいは、ぞんざいに葬った・・(身分に相応しい葬送儀礼がなされなかった)ということでしょうか?
 土器の年代からいうと、580年代ごろらしい。
 
 
 しかも、この墓は平安時代頃から、「貴人の墓」としてず〜とお祭りされていたようで、墓が開いていたにもかかわらす、盗掘されていないし、中に入って祭祀をしていた形跡まであって、この墓を守るためだけに、お寺も建てられていました。
 
 伝承では「崇峻天皇」の墓と言われていたこともあったらしい。
 しかも、法隆寺の釈迦三尊像のウラに謎の文字があって、これには「陵」を拝む・・というような文面であるらしい。
 もしかして、この「陵」が藤ノ木のことなら、法隆寺そのものも、「藤の木」のために建てられた?!
 
 これはどえらいことですがな・・。
 
一体、北さんは、誰やねん?
 
 580年代ごろに、ここらへんで何があったか?
 
 日本史年表をくると、でました!
 物部の守屋の変! 
 
 2大豪族の蘇我氏物部氏の、権力闘争があって、宮中では、敏達天皇の死後、用明天皇が即位(585年)したけれど、この天皇が病弱で、あまり求心力がなかったせいか、蘇我と物部のSM抗争は、ますます激化!
 
 用明即位に反感を持つ、穴穂部皇子が、敏達天皇の殯宮におしかけて、前皇后の炊屋姫を強姦?しようとして、三輪逆に阻止された・・などという記録があり、怒った穴穂部が物部守屋に三輪逆を攻め滅ぼさせた・・ということがあったらしい。(586年)
 
 この皇子は、天皇になりたがっていて、守屋とはかって、密かに挙兵しようとしていたが、蘇我馬子が、事前に、この皇子の家に夜襲をかけて殺してしまったのです(587年)。
 
 その翌月、早くも蘇我馬子は、守屋討伐軍を出し、この戦に、まだ少年の聖徳太子が参加していたのは有名です。
 
 守屋は本拠地の河内渋川の邸宅を襲われて、敗死。そして蘇我の天下となる。
 
 ま、これが、日本書紀にいうところの物部守屋の変でありますが、用明天皇の死後、崇峻天皇が即位し、すぐに蘇我馬子と不仲になり、馬子に殺されます!(592年)
 
 そして登場したのが推古女帝。あの、あぶなかったとされる未亡人炊屋姫です。
 このとき摂政になったのが聖徳太子(593年)。
 
 どうですか? 
って何が・・・
 なんだか、斑鳩をめぐるストーリーが浮かんできません? 
 
 聖徳太子は用明天皇の子供ですが、母親は穴穂部間人皇女。そして、同腹の弟が穴穂部皇子と崇峻天皇。
 炊屋姫こと推古女帝は敏達天皇の未亡人で、用明天皇の同母の妹。
 推古と穴穂部間人皇女は、異母姉妹。(下の系図を参照して下さい)
 
 母親同士がともに、先々代の欽明天皇の妃であったのですが、どちらも蘇我の娘で、姉妹あるいは叔母姪の間柄。
 母方の系譜はわかりませんが、どちらかが物部の娘を母としていたとすればどうですか?
 かの蘇我馬子の妻は守屋の妹ですから、両氏族に通婚があった可能性は大!
 
 後宮における、蘇我・物部抗争!
 なんだか、母親の代から引きずってきた争いを、持ち越しているような気がしませんか? 
 その2人の女の系譜で争いがおき、人死にが、たくさん出ています。
 
 斑鳩は、その死者たちの鎮魂の地であったとしたら・・
 
 殺された穴穂部の姉の子である聖徳太子は、物部守屋を討伐する側に入って、自らの立場を明らかにしなければならなかったし、蘇我氏は、自ら殺した穴穂部の同母弟を崇峻天皇として、即位させなければならなかったのではないでしょうか。
 
 そして、崇峻は、兄を殺した蘇我氏に対して、ネコを被りきれず、暴言を吐いて殺されることになった。
 
 なんだか・・・法隆寺・・意味深な寺ではありません? 
 本当は、誰を供養するためなのか・・。(あるところで、法隆寺の地下に、密かに物部守屋を祭ってある・・・なんて聞いたこともある・・)。
 
 え?  そうですよ。
 
 私は、藤ノ木古墳の北さんは、穴穂部皇子ではないかと思っています。
 
 じゃあ、南さんは誰か? 記録に残っていない穴穂部の妃であった・・というのでは、不満かしら? 
 穴穂部は、夜に自宅で襲われています。多分、妻も一緒に殺されたんじゃないでしょうか?
 年上の妻でもいいんじゃない?
 これが、物部守屋の娘だったら・・って想像すると面白いんだけど・・・。
 武門の家柄で、女も、筋肉モリモリに鍛えてたってのはどう?
 
 ところで、発掘調査終了後、2体の遺骨の一部を、北さんはイタリア産の大理石の箱に入れられ、南さんはインド産の白大理石の壺に入れられて、また石室内に安置されたらしい。
 イタリアンファッションに身をつつんだ北さんと、派手なインドサリーをまとった南さんが、困惑顔で、お互いを見ている図を想像すると、なんだか笑えません?(F)  


※参考文献は、ちょっと調べただけでもすごくあるし、色々なので、とりあえず、手近なものだけ。
 
 日本の古代遺跡を掘る5 藤ノ木古墳     ー斑鳩に花開く東アジアの古代ー
                               前園実知雄 白石太一郎  読売新聞社
 
 藤ノ木古墳と6世紀 被葬者は誰か
                                      黒岩重吾 大和岩雄     大和書房
 
 藤ノ木古墳とその文化
                               森浩一・石野博信・編     山川出版社
 
 藤ノ木古墳の全貌  
                               橿原考古学研究所・編    学生社  

HOME